階段を駆け上り、僕はようやく理事長室にたどり着いた。
――地上十七階。
さすがに息が上がる。歩いて行くという選択もあったが、なんとなく急がなくてはならない気がしたのと、これだけの階層を歩いていては気持ちが持たないと判断したからだ。勢いでなんとか登り切ろうという作戦だ。
ちなみにエレベーターを利用するという選択肢は、メンテナンス中という張り紙によって棄却された。
今日は入学式だから、生徒が上の階へ移動する必要がない。あっても階段で充分移動できる範囲でしか活動しないだろうという判断だ。
事実、三階を過ぎた辺りから他の生徒に出会うことはなかった。
最上階まで階段で行こうなどという生徒は僕くらいだ。
妙に達成感を得てしまった僕は、呼吸を一度落ち着かせる。
目的は階段を昇降することではなく、理事長室で要件を聞くことだ。どんな要件かは不明だけど、落ち着いて聞くに越したことはない。
そして、他の部屋より明らかに豪華な扉の前に立つと、僕はノックをした。
すぐさま、僕を呼び込む声が耳に届く。
「どうぞ~」
放送で聞いた声。
「失礼します、蒼祈です」
理事長室の扉を開き、中への足を進める。
室内は思っていたほど広くはなく、それなりに高級なアンティークの設備で統一されていた。
とはいえ、悪趣味なお金持ちのような印象はない。
正面には作業デスクと椅子。
デスクには『理事長』と書かれたプレートが設置されているものの、その席には誰もいない。
僕を招く声はしたのだから、少なからず誰かがいるはずで、ここが理事長室なのだから理事長である可能性が高いのだけど……。
周囲を見渡してみても、それらしい人は見当たらない。
「ほたる~ん、こっちこっち~」
再度声がする。
理事長室に入って右側、ついたてのある応接用のスペースらしきところに、声の主は隠れていた。
僕はその声に従い、ついたてから奥をのぞき込む。
そこにいたのは、なんというか……少女だった。
金髪ツインテール。
サイズの合っていない黒スーツ。
その少女は、本来花瓶などを置くためのものであろう台座にちょこんと座り、足をパタパタと動かしながら僕に手を振っていた。
普通に考えると、この学園には似つかわしくない存在だろうと思う。
だけど、放送で聞いた声と同一であることや、わざわざ最上階にいること、少女とはいえ一応スーツに身を包んでいることなどを考慮すると、もしかしてそうなのではないか……という仮説は生まれる。
いや、多分そうなんだろうけど、僕は一応こう聞いてみることにした。
「あの……理事長さんがどこにいるかご存じですか?」
それを聞いた少女は、台座からぴょんと飛び降りると僕に駆け寄り腕組みをした。
そして僕を見上げて自慢げに宣言する。
「よくぞ聞いてくれました! 驚く事なかれ、私こそがこの学園の~~~~理事長なのですっ!!」
……………………うん。
聞き間違いではないだろうし、この返答もあらかじめ想定はしていた。
だけど、実際そうなのだと真実を理解するのは容易ではない。
常識を疑うことは時に必要だと理解しているし、常識から外れたものを否定しようとも思わないけど。
目の前にいるこの女児という表現が似合いそうな人が、そうだというのか。
「あなたが……理事長さんなのですか?」
「だからそう言ってるでしょ? 蒼祈ほたるくん!」
僕の質問が気に食わなかったのだろう。
理事長と名乗る少女……いや、理事長は、「まったくもうっ!」などと呟いた。
しかし、理事長だと認識されたこと自体は嬉しく思っているらしく、頬を緩ませてなんだか嬉しそうだ。
夜乃月学園理事長。
世に聞く謎の学園にふさわしく、一般的な理事長像からかけ離れた容姿だ。
この若さで理事長とは、どこかの権力者の娘が理事長をやっているという可能性もあるかもしれない。
私立の高校だし、その辺りの自由もききそうだ。
ただ真実は分からない。
一般的な手続きをふんで理事長の座についているわけではないのは確かだろうと思う。
ものすごく若作りで、実は成人女性という線もあるかも知れないけど、初対面でいきなり女性に年齢を聞く勇気はない。
いくら憶測を脳内で並べたところで意味がないと判断した僕は、本題に話を進める。
「ところで理事長、僕は何の用件で呼ばれたのでしょうか?」
「あ~、そだね。うん……とりあえずこれっ!」
理事長は自分のデスクから書類を一枚取り出すと、胸ポケットにさしていたボールペンと一緒にテーブルに置く。
「さらっと目を通してサインしてくださいな」
「はぁ……」
僕は理事長に背中を押され、ソファーに座り書類をのぞき込む。
――生徒会加入誓約書。
文面はそういうものだった。
「ほたるんには生徒会に入ってもらうよ」
その言葉には、ものすごい強制力が込められているように思えた。
事実、理事長の言葉とはそういうものだろう。
問題は、なぜなのか? どうして僕なのか? ということだ。
「い、いきなり生徒会に入れと言われましても……あと、なぜ僕なんですか?」
「ん? 大丈夫♪ 名前を貸してくれるだけでいいから」
などと詐欺師が言いそうな台詞が返される。
どこの学校に、名前だけの生徒会役員がいるというのだろうか。
もし本当にそうするつもりなら、それこそ理事長の責任が問われかねない。
そうならないようにするというのなら、それは僕が生徒会として充分な役割を果たすのが前提となる。
夜乃月学園理事長、夜乃月雫。
この学園は事実上彼女の所有物だ。
見た目と雰囲気からは想像出来ないけど、彼女の手腕によってこの学園が存在できているという事実からは目を背けることが出来ない。
僕が拒否した所で、最終的にはYESと言わざるを得ないのだろう。
いや、ありとあらゆる手段を使えば、この無茶な理事長のオーダーについて批判を集め問題にすることは出来るだろう。
それがどこかで彼女の権力によってもみ消されるとしても、波風を立てることくらいは出来そうな気がする。
だけど、僕はそうするつもりはなかった。
出会ってまだ数分しか経っていないけど、どことなくこれは面白いことになりそうだと判断したんだ。
そんな判断をする性格ではないんだけど、ただこの時は不思議とそう思えてしまった。
ゆえに、僕はその書類にサインした。
充分に詳細を確認することなく。
「書きましたよ」
「おお!? 意外に素直?」
「不満があるなら取り消しますよ?」
「いやいや、満足です。……というわけで! この書類は即時受理されましたっ! それでは明日からよろしくです、ほたるん副会長♪」
小躍りしている理事長の横で、僕は狼狽える。
今、理事長は何と言った?
副会長?
まてまてまて――――っ!?
それって、つまり……。
生徒会の役割や組織構造については人並み程度に理解している。
学園を運営する上で、生徒自身が自治を行う。
そういう領域を用意することで、学園の運営をより良いものにすると同時に、生徒自身に自らを取り巻く環境を整備する意識を持たせる。
書記や会計などの役割を筆頭に、様々な役割がその学校ごとに用意されているし、もちろんそこにはそれをまとめる生徒会長なんかもいるわけだけど。
生徒会に入りなさいと言われたときに、僕の中で生徒会長と生徒会副会長は選択肢から無意識に外していた。
なぜなら、そこまでの重要ポストなら、「生徒会に入ってもらう」などとは言わず、「生徒会長になってもらう」とか「生徒会副会長になってもらう」などと言われるだろうから。
それに、僕が知る限り生徒会役員とは選挙で決めるものだから、仮にその手順を理事長権限で省くにしても、生徒会長と生徒会副会長はないだろうと考える。
というのが僕の中の常識的考えであって、目の前の理事長は違うんだ。
理事長が今手にしている書類。
よく見ると、希望する役割の欄があり、案の定副会長のところにチェックが入っていた。
うん、書類はよく読んでおくべきだな。
「じゃなくて! そのっ……書類っ……ちょっと! まったぁ!」
僕は理事長の持つ書類に手を伸ばす。
しかし、理事長はそれをひらりと躱し、微笑む。
「も~、受理しちゃったんだから大人しくしなさい……!」
「本意ではない場合はそうも行かないでしょう?」
この時僕はどうかしていたのだろう。
書類を奪い返したことろで、それが撤回できるわけでもない。
落ち着いて普通に反論すれば良いだけだ。
相手は理事長。
生徒の意見を聞くくらいのことは職務のうちだろう。
ただなんだろう。
理事長の見た目のせいだろうか?
つい戯れてしまったんだ。
多少の体格差などもあり、僕は理事長から書類を奪取することに成功した。
ついでにうっかり押し倒してしまったりもしたが、ソファーの上だったので安全上問題はなかった。
……安全上は。
カシャッ!
その音は、スマートフォンのカメラ機能で写真を撮ったときのような音だった。
理事長を押し倒した僕の真下で、理事長がスマートフォンを構えている。
ああ、紛れもなくスマートフォンのカメラ機能で写真を撮ったときの音だったんだ。
「ほたるん、ほたるん♪ 面白い写真が撮れたよ!」
それはどう考えても僕にとって面白くない写真だ。
「そ、それは……」
「うししし、これはスキャンダルですねぇ、ほたるん副会長?」
誰が見ても勘違いされそうな写真が撮れたのだろう。
僕を副会長と呼ぶ所からも、何が何でも撤回しないという意志が感じ取れる。
「ほたるん知ってる? これをね、新聞部にリークすると面白いことになるんですよ?」
いやそれがどう考えても僕的には面白くないんですよ。
「明日放課後、生徒会室で会議があるから、忘れないでね~♪」
にこやかに、明るい声で発せられる悪魔の祝詞。
とてつもない圧力が僕にこう言わせる。
「はい……、分かりました」
何が分かったというのだろうか。
それすらもよく分からないまま、僕は生徒会副会長への就任を受け入れるのでした。